【ブログ】「話せるようになる」ための500の方法
行きすぎた「インクルーシブ教育」の問題
日々、全国各地の方から相談を受けていると、色々な地域のローカル・ルールに出くわすことがあります。中でも私が一番問題が大きいと思うのは、「インクルーシブ教育」を推進しすぎてしまって、特別支援学級をなくしてしまった地域です。
はじめに断っておくと、私は「インクルーシブ教育」の理念や考え方には大賛成です。障害の有無や重症度に関わらず同じ場で学べるようにすることは、理念としては素晴らしいです。
ですが実際の運用にあたって、機械的に「同じ場で学ぶ」だけを採り入れても、それはインクルーシブ教育とは呼べません。インクルーシブ教育の理念の基であっても、やはり特別支援学校や特別支援学級は必要だと考えています。
インクルーシブ教育とは、個々の障害や疾患、子どもの状態などへの深い理解と、個々に応じた必要な支援・配慮があってはじめて成り立つものです。それがなければ、ただの「多数派への統合」になってしまいます。
大阪府のいくつかの自治体では、「インクルーシブ教育」と称して、特別支援学級に在籍している子たちも通常の学級で過ごすことを強制しています。場面緘黙や関連する症状のある子たちが特別支援学級で過ごすことを希望しても、それが受け容れられない学校が多くあります。
こちらの記事に書いている通り、緘黙症状以外にも行動の抑制などの問題が大きく、学校生活全般にわたって支援や配慮が必要な場合は、特別支援学級を利用した方がよいと考えています。私が通級よりも特別支援学級がよいと判断するのは、取り出しでの個別の指導だけでなく、「特別支援学級」という居場所そのものが必要な場合です。ところが、自治体や学校の方針でその居場所が利用できないというケースが、上記の「インクルーシブ教育」を進めている地域では非常に多いのです。
この「インクルーシブ教育」の考え方のどこに問題があるかというと、「集団が苦手」「人がいるところが苦手」という子がいることへの理解と配慮が欠けていることです。
視覚障害や聴覚障害、学習障害やADHDといった多くの人が知っている「障害」は、支援や配慮や指導方法の工夫さえあれば、通常の学級での学習にも十分に参加することができます。それは、これらの障害の本質が「集団への参加」「人との関わり」の部分にある訳ではないからです。
しかし、社交不安や視線恐怖、パニック障害等に代表される「不安症」のある子たちは、「集団への参加」「人との関わり」そのものに苦手さがあります(社交不安等の不安症の症状は場面緘黙に併存することが極めて多いです)。人の多いところやザワザワした場所では安心して過ごすことができないからこそ、「特別支援学級」という居場所が制度によって保障されているのです。
「インクルーシブ教育」と称してこういった子たちにも機械的に「同じ場で学ぶ」ことを求めるのは、共生社会の実現からはほど遠い、単なる「多数派への統合」です。多数派への統合というのは、私はとても怖いことだと思っています。インクルーシブ教育を進めるのであれば、個々の障害や疾患、子どもの状態などへのより深い理解が不可欠です。
ですので、インクルーシブ教育の理念の元であっても、「情緒障害」と呼ばれるグループに分類される子たちのためには「特別支援学級」の利用を認めるべきだと私は考えています。