【ブログ】「話せるようになる」ための500の方法
「10歳を過ぎると治りにくくなる」!? そんなことはないですよ。
保護者の方から、「10歳を過ぎると治りにくくなるそうですが・・・」という話を聞くことがよくあります。「年齢が高くなると治りにくくなる」と言われることもあるようです。
そんなことは全然ありません。
年齢が高くなってからでも緘黙症状を改善させることはできます。
むしろ私は、年齢が高い方が治しやすいと思っています。
年齢が高い方が、本人とやりとりしやすくなり、話す練習の方法なども詳しく相談することができるようになります。また、中学校や高校に進学するタイミングで緘黙症状がきれいに改善するケースも少なくありません。
大事なのは「年齢が高いか」ではなく、本人が「話せるようになりたい」と思っているかです。
では、「年齢が高くなると治りにくくなる」説が出てくるのは、なぜでしょうか。
「年齢が高くなると治りにくくなる」ように感じてしまう理由
1.年齢が高くなるまで、適切な対応がなされなかっただけ
効果のない対応をしていても、症状が軽ければ勝手に治ってしまうことはあります。
軽い症状の子なら「プレイセラピー」だけでも改善することはありますし、「様子を見ましょう」「自然に治るのを待つ」というやり方でも(=何もしなくても)、治ってしまことはあります。
このように症状が軽くて自然に治ってしまうのは、ほとんどが低年齢のうちです。
一方で、こういった対応では上手くいかなかった子が、「低年齢のうちに治らなかった」ケースになっていきます。「様子を見ましょう」と言って何もしていないうちに高学年になってどう対応したらよいか分からなくなってしまう、というのが典型例です。
つまり「年齢が高くなるから治りにくい」のではなく、「適切な治療がなされなかった」から治りにくいのだと捉えるのがよいでしょう。
2.効果のない対応を続けたことで、本人の治療への期待を低下させてしまった可能性
中には、効果のない対応を何年間も続けてしまうケースもあります。
効果がないセラピーに何年も通い続けていれば、「治療を受けても治らない」と思うようになってもおかしくありません。
こうなってしまうと、効果のる方法を提案しても納得してもらうのはかなり困難になります。
ですので年齢ではなく「効果のない対応を続けた」ことが原因で、よけい治りにくくさせてしまっているのかもしれません。
3.テレビなどで紹介されるのは、たいてい「年齢が高く、症状が重い」方
テレビなどで、大きくなっても重い緘黙症状が残っている方が紹介されることがあります。これも「年齢が高くなると治りにくくなる」という見方を強めてしまう一因だと私は考えています。
ただテレビでは、症状の軽い子や、すぐに治ってしまう子が紹介されることはあまりないと思います。極端な例を採り上げているので、「よくあるケース」だとは捉えない方がよいでしょう。
またそういった症状の重いうケースでも、適切な対応をすれば症状を改善させることができると私は考えています。中学生や高校生になってから話せるようになる方はたくさんいますし、本人が「話せるようになりたい」と思っていれば症状が重くても治すことができます。
4.一般的に「早期発見・早期介入」がよいとされているから
乳幼児期・児童期の発達支援では、一般的に「早期発見・早期介入」がよいとされています。症状が長引けば、対応が難しくなったり、二次障害に発展したりすることもあります。
これは場面緘黙もまったく同じで、対応は早ければ早いに越したことはありません。
ただ「早期発見・早期介入」がよいというのはただの一般論ですので、とりたてて場面緘黙の症状だけが年齢とともに治しにくくなるということではありません。
何歳からでも、緘黙症状の改善はできる
小学校高学年になって緘黙症状が続いていても、「10歳を過ぎたから治りにくくなる」と悲観する必要はありません。
何歳からでも、適切な対応を開始すれば緘黙症状を改善させていくことができます。
そして、もし年齢が高くなっても緘黙症状が残っている場合は、「適切な対応がなされてこなかった」可能性があると考えてみてください。
(何もしてこなかったか、適切ではない対応をしてきたか、のどちらか)
その場合は、少しでも早く効果のある対応を始めることをお勧めします。
「期待」と「不安」の綱引き
春分の日が過ぎ、卒業式・卒園式があちこちで行われている時期です。
「期待と不安を胸に」とよく言いますが、実際これらは表裏一体のものです。
「期待」も「不安」も、「分からないこと」「未知のこと」「これからのこと」から生じてきます。
先のことが分からないから不安でもあるし、期待もあるのです。
これが「期待」の方に傾くか、「不安」の方に傾くかによって、新しい環境にどう立ち向かっていけるかが変わってきます。
期待と不安の綱引きです。
緘黙症状のある子たちの巣立ちを見ていると本当によくこれを感じます。
こういう時、できるだけ不安を小さくして、期待の方を大きくしていってあげたいですね。
そのためにできることがあります。
それは「情報を得ること」。
「不安」は「分からないこと」から生じてきます。
だから不安への一番の対処方法は、「分かること・知ること」です。
例えば小学校への入学だったら、小学校について色々と知っておくこと。
・学校への行き方、靴を脱いでしまう場所、教室の様子、トイレの位置、着替える場所、給食を食べる場所。
・学校でどんな勉強をするか、入学式では何をするか、どこで親と離れるか、どんな歌を歌うか、返事をするのか。
・誰と同じクラスか、担任の先生はどんな先生か。
・入学式当日どんな服を着るのか、何を持っていくのか。
実は新年度が始まる前、春休み中にも情報収集できることはたくさんあります。
そして詳しく知っていけば、不安は減り、期待は膨らんでいくのです。
期待と不安の綱引きで「期待」が勝てば、いい春休み、そしていい新年度を迎えることができると思います。
【難問】 場面緘黙の症状のある双子は同じクラスにした方がよいか?
先日相談のあった方からの質問で、「場面緘黙の症状のある双子ですが、小学校に上がるときに同じクラスにしてもらった方がいいですか?」というものがありました。
これはとても難しい問題ですね。
この方には、90分ほど面談で詳しくお話を伺ったり一緒に考えたりした上で、どちらがよいかの私の考えをお話ししました。
今回はこの難問について、考えてみましょう。
なぜこの問題が難しいのか
難しい理由1:ケースによって正解が異なるから
「同じクラス」にした方がいい場合も「違うクラス」にした方がいい場合もあり、ケースによってどちらが正解になるかが異なります。
単純にパターン化したり、こういうケースはこうと決めつけることができません。
難しい理由2:答えを1つに絞らないといけないから
2つの選択肢の違いは決定的なものなので、両立させたり中間を選んだりすることができません。
予防的に他の選択肢を残しておくこともできません。
難しい理由3:その判断が長期間継続するから
この判断は長期間継続し、途中で変更することができません。
クラス替えが2年に1回の学校なら、この判断によって最低2年間の環境を固定することになります。
難しい理由4:誤った判断をしてしまった場合の負の影響が大きいから
結果的に明らかな「誤った判断」になってしまう可能性があります。
特に「違うクラスにする」という判断をした場合、もしそれが誤った判断だった(ことが後から分かった)場合の負の影響が非常に大きいです。
このような理由から、他の問題(例えば「話す練習」をどうやって行うか)よりも判断の重さが大きくなります。
この問題を考えるための背景:思いつくこと
・双子やきょうだいの場面緘黙の子は多い
きょうだいはもちろんですが、双子の場面緘黙の子のケースもこれまでに何組も出会ってきました。
場面緘黙そのものが遺伝するのではなく、背景にある性格や気質が似るからだと考えています(これについてはまたどこかで書きましょう)。
双子の場面緘黙というケースは多いとすれば、2クラス以上ある学校なら必ずこの問題に直面するはずです。
ですのでこの問題はしっかり考えておく価値があると思います。
・学校の先生は「違うクラス」を選ぶことが多い(のではないか)
これは明確なデータがある訳ではないですが、私の関わった子たちの経験では「違うクラス」になっているケースが多いのではと感じます。
その理由は、おそらく学校の先生は「人間関係を広げてほしい」「友だちを作ってほしい」「自立してほしい」「2人の世界になってしまうから」のように考えると思うからです。
このため多くのケースで「違うクラス」という判断がなされるのではないかと思うのですが、そうすると「本当にその判断を第一の選択肢としてよいのか」を考えておく必要はあるでしょう。
・双子の場面緘黙は「閉じた世界」「二人だけの関係」になるか
どのくらいの頻度かは分かりませんが、なるケースは確実にあります。
「双子の間で話せているから困らない」というケースもあります。
これはやはり緘黙症状の改善という視点からは要注意です。
もちろん、他の子たちへと関係が広がっていくケースもありますので、必ず閉じた世界になるとは言えません。
また双子とは言え(一卵性であっても)性格も行動も違うので、どちらかが社交的でどちらかが内向的ということもあります。
・「違うクラス」のメリット・デメリット
メリット:
・人間関係が広がりやすい可能性がある(ただし、必ず広がるとは限らない)
デメリット:
・(状況によっては唯一の)話せる相手と違うクラスになってしまう(ただし、他にも話せる相手がいる/できる可能性はある)
・複数の先生が対応することになる(ただし、これは必ずしもマイナスのこととは限らない)
つまりこの判断をした場合、もし期待していたように他の子への人間関係が広がっていかなかったら、緘黙症状はより悪化してしまうリスクがあるということになります。
・「同じクラス」のメリット・デメリット
メリット:
・話せる相手が確保できる(ただし、双子同士でも学校で話せるとは限らない)
・同じ先生が対応できる
デメリット:
・二人だけの関係から広がって行きづらい可能性がある(ただし、他に広がる可能性もある)
・対応する先生の負担が大きくなる
つまりこの判断をした場合、緘黙症状悪化というリスクは避けられる可能性があります。
その反面、緘黙症状が改善しないというリスクは大きくなります。
・「合理的配慮」は可能か
「違うクラス」や「同じクラス」を判断するにあたって、「合理的配慮」という視点を持ち出すこともできます。
もし障害の状態からみてどちらかの判断が明らかによさそうなら、合理的配慮を考えてみてもよいでしょう。
(「違うクラス」でも「同じクラス」でも余計なコストがかかったり他の子に影響したりする訳ではありませんので「過度な負担」にはならないでしょう)
「合理的配慮」を持ち出すまでもないと思う方もいるかもしれませんが、学校側の提案(おそらく「違うクラス」)と本人・家族側の要望が明らかに違っていて折り合えないことはあります。
こういう状況で、障害の状態から考えて本人・家族側の要望が妥当だと考えられる場合は、合理的配慮で解決することになるでしょう。
・本人たちの意思
これは本人たちに聞いてみないと分かりませんが、「同じクラス」を希望することが多いような気がします(その方が安心感が高いですから)。
通常はクラス編成の際に本人の意思は考慮されませんので、ここは考慮しなくてよいかなと思いますが、上記の「合理的配慮」が絡んでくる場合は、本人たちの意思は重要になります。
どう考えるか
最終的には、上記の様々な要因やメリット・デメリットを考慮した上で、どちらの方がよいかを選ぶしかないでしょう。
ご質問のあったケースで私がどうお答えしたかは書きませんが、私が考えた判断の基準は「どちらが緘黙症状の改善が見込めそうか」でした。
「症状が重くてまずは配慮を優先なら同じクラス」「離すことで緘黙症状の改善が見込めそうなら違うクラス」になるかなと考えました。
画一的に「違うクラス」にするのではなく、個々の状態に応じて慎重に考えることが大事だと思います。
「大丈夫ですよ」の罠
今日は2件続けて、お医者さんから「場面緘黙ではありませんよ」「大丈夫ですよ。そのうち話せるようになりますよ」と言われて安心してしまい、対応が遅くなってしまったケースの相談がありました。
「様子を見ましょう」もたちの悪いアドバイスですが、「そのうち話せるようになりますよ」はもっと悪いですね。
医者から「大丈夫」と言われれば「大丈夫なのかな」と思ってしまうし、何よりそう思いたいからそのことばにすがってしまいます。
結果として、適切な対応を始めるのが遅くなってしまうのです。
対応が遅くなってしまっても、いつからでも緘黙症状を改善させることはできます。
ですが、大きくなってから緘黙症状が治っても、その子が話せないで過ごした期間は戻ってはきません。
なるべく早くしっかりした計画を立てて、緘黙症状の改善に積極的に取り組むことが大切だと考えています。
行きすぎた「インクルーシブ教育」の問題
日々、全国各地の方から相談を受けていると、色々な地域のローカル・ルールに出くわすことがあります。中でも私が一番問題が大きいと思うのは、「インクルーシブ教育」を推進しすぎてしまって、特別支援学級をなくしてしまった地域です。
はじめに断っておくと、私は「インクルーシブ教育」の理念や考え方には大賛成です。障害の有無や重症度に関わらず同じ場で学べるようにすることは、理念としては素晴らしいです。
ですが実際の運用にあたって、機械的に「同じ場で学ぶ」だけを採り入れても、それはインクルーシブ教育とは呼べません。インクルーシブ教育の理念の基であっても、やはり特別支援学校や特別支援学級は必要だと考えています。
インクルーシブ教育とは、個々の障害や疾患、子どもの状態などへの深い理解と、個々に応じた必要な支援・配慮があってはじめて成り立つものです。それがなければ、ただの「多数派への統合」になってしまいます。
大阪府のいくつかの自治体では、「インクルーシブ教育」と称して、特別支援学級に在籍している子たちも通常の学級で過ごすことを強制しています。場面緘黙や関連する症状のある子たちが特別支援学級で過ごすことを希望しても、それが受け容れられない学校が多くあります。
こちらの記事に書いている通り、緘黙症状以外にも行動の抑制などの問題が大きく、学校生活全般にわたって支援や配慮が必要な場合は、特別支援学級を利用した方がよいと考えています。私が通級よりも特別支援学級がよいと判断するのは、取り出しでの個別の指導だけでなく、「特別支援学級」という居場所そのものが必要な場合です。ところが、自治体や学校の方針でその居場所が利用できないというケースが、上記の「インクルーシブ教育」を進めている地域では非常に多いのです。
この「インクルーシブ教育」の考え方のどこに問題があるかというと、「集団が苦手」「人がいるところが苦手」という子がいることへの理解と配慮が欠けていることです。
視覚障害や聴覚障害、学習障害やADHDといった多くの人が知っている「障害」は、支援や配慮や指導方法の工夫さえあれば、通常の学級での学習にも十分に参加することができます。それは、これらの障害の本質が「集団への参加」「人との関わり」の部分にある訳ではないからです。
しかし、社交不安や視線恐怖、パニック障害等に代表される「不安症」のある子たちは、「集団への参加」「人との関わり」そのものに苦手さがあります(社交不安等の不安症の症状は場面緘黙に併存することが極めて多いです)。人の多いところやザワザワした場所では安心して過ごすことができないからこそ、「特別支援学級」という居場所が制度によって保障されているのです。
「インクルーシブ教育」と称してこういった子たちにも機械的に「同じ場で学ぶ」ことを求めるのは、共生社会の実現からはほど遠い、単なる「多数派への統合」です。多数派への統合というのは、私はとても怖いことだと思っています。インクルーシブ教育を進めるのであれば、個々の障害や疾患、子どもの状態などへのより深い理解が不可欠です。
ですので、インクルーシブ教育の理念の元であっても、「情緒障害」と呼ばれるグループに分類される子たちのためには「特別支援学級」の利用を認めるべきだと私は考えています。